ある人から教わった言葉がある。「今、そこにあるものを活用せよ」である。ついつい、新しいことや新しいものばかりに目が行ってしまいがちだが、それよりも、もう一度、足元を見てごらん、まだ活用できるものがたくさん残されているよ、ということだ。えびおじさんはその言葉に「なるほど」と思った次第である。それはそうと、何か活用できるものはないかといった視線で身の回りを眺めると、まるで「宝探し」の気分になる。
親戚から山を預かっている。県本土の西側の薩摩川内市にある。さほど大きな山ではないが、春から夏にかけてはタケノコや梅、秋は柿ちぎりと季節を楽しんできた。
ところが、山の恵みはこれだけではなかった。数年前に大きなイチョウの樹があることに気づいた。当然のことに、季節になればギンナンが、ポトン、ポトンと降ってくる。匂いには少しばかり閉口するが、近くの小川で果肉を処理して持ち帰りビールのつまみにする。面白かったのは、果肉を処理していると、匂いにつられて、エサと勘違いしたか、小さな魚やサワガニが寄って来て、ついでに、えびおじさんの足をくすぐるのである。ギンナンに熱を加えてはじけた中身のヒスイ<翡翠>色はたまらない。今年も、もう、まもなくである。友人にも少しおすそ分けする。
山には、ほかにも、シナモン<肉桂>の大木や、小さいながらも山椒の木を発見した。また、風雨にさらされたままの倒木があった。硬い木でまだまだ使えそうだったので持ち帰って玄関の小物載せにした。また、妙に変形した竹は写真の格好の素材だ。
先日、宇検村の知り合いから鹿児島の自宅に立派なバナナが送ってきた。なんでも、近所の人がバナナを植えていたが、昨年、その横から出てきた脇芽をもらって植えたところ、大きく育ち、早くも、今年、収穫できたのだという。丸々と太った小笠原バナナはほど良く酸味もあり旨い。この脇芽は捨てられる運命だったが、活用できるという気持ちで植えたのだとこの友人は語る。
別の知り合いが実家じまいをするというので、のこのこと付いていったら「宝」がいっぱいあった。ラジカセ<若い人は知っているだろうか?>、扇風機、地球儀<ロシアではなくソビエト連邦と表記してあるが、地球が丸いことに変わりはない>、さらには、納屋にあったたくさんのノコギリと鎌たちである。手入れが行き届いていてすぐにも使えそうである。全部、処分するのだという。ありがたくいただくことにした。知り合いは「新しい居場所が見つかってこれらの品も喜んでいるに違いない」と言ってくれた。こちらこそ、感謝である。
ノーベル賞受賞者のマータイさんの言う「MOTTAINAI もったいない」ではないが、あらためて、身の回りを見つめて、活用されていないモノに命を吹き込んでみたい。
そう言えば、ギンナンを処理する小川のことで思い出したが、亡くなった叔母が小さい頃の話として、この川辺からちょろちょろと温泉の湯が湧き出て湯気が立っていたという。えびおじさんは、探検隊の心意気で調べてみたが見つからない。おそらく、もともと、か細かった泉源が絶えてしまったのだろう。しかし、また、復活するかもしれない、それを期待している。
山全体を「宝の山」と定義して視線を新たにすれば「宝」はまだ見つかるかもしれない。宝探しという醍醐味を味わってみたい。いや、しかし、棲みついているシカやイノシシはすでにその視点を持ち合わせていて、えびおじさんの先回りをしているに違いない。またまた、彼らの後塵を拝することになってしまうのだろうか。<えびおじさん>



上:果肉を処理する前のギンナン
中:タケノコの段階で、石がかぶさっていたために曲がったと思われる
下:送られてきた、みごとなバナナ
