なんの自慢にもならないが、片づけが下手である。部屋の中はモノが散らばって雑然としており新聞も積み重なっている。最近の新聞ならまだしも数年前のものもある。古新聞のすき間で愛犬ベリーが昼寝をしている。我ながら困ったものだ。
以前、職場の先輩に片づけ上手な男性がいた。見ていて気持ちが良いくらい不要になったものはどんどん捨てていくのである。おかげで、机の上はいつもすっきりしていた。性格もさっぱりした方だった。聞けば、満州引き上げ経験者とのこと。「何も持たず体ひとつで帰ってきた。だから捨てることに抵抗はない」とおっしゃっていた。その時はたぶん3歳くらいだろうからほとんど記憶にはないはずだが、それでも過酷な引き上げ体験が小さな子供にとっても断片的に刻み込まれているのだろう。この先輩にとって、捨てることが生きる術(すべ)だったのかもしれない。
病的な片づけ魔(整理魔)もいるようだ。直接の面識はないのだが、並べた本が数ミリ狂ってもイヤだという女性とのことである。この女性がえびおじさんの部屋を見たら断末魔の声をあげるに違いない。
片づけが苦にならない人もいる。ある会合の席で中年の女性が「趣味は片づけです」と自己紹介した。「ヘ~っ!」と驚くとともに「他に趣味はないのかい!」と心の中で突っ込みを入れてしまった。「いったいどんな端正な部屋になっているのだろう、部屋に歴史の重みが感じられないのでは」と悪態をつきたくもなった。もちろん片づけられないえびおじさんのひがみである。
片づかない理由は何だろう。そもそも、片づけることに関心がなく、片づいていなくてもいたって平気で違和感を感じない。キザな言い方をすれば、片づけることに生産性を感じないのである。しかし、これは大きな間違いで、いざ、探し物をするときに膨大な時間を要するときもある。それこそ非生産的である。やはり、こつこつと整理しておくべきなのだろう。
「もったいない、いずれ役に立つのでは」といった思いは、ものを大事にするという意味では美徳ではあるが、片づけにはじゃまである。美しい形のウイスキーやワインの空き瓶が10数本並べてある。長いこと飾っているうちに愛着も出てくる。ますます捨てられない。我が家の今年のカレンダーには画家・田中一村の絵をあしらってある。これも捨てきれない。めくった前月の絵は保存している。
いちばん手こずるのは新聞である。ITが苦手のえびおじさんは紙や活字に固執する。古くなった新聞をまとめてポイができない。役に立ちそうな記事やおもしろい記事は切り抜く。先日は「温泉に気持ちよく浸かる猿」の写真があった。この表情に参ってしまい、やはり、切り抜いてしまうえびおじさんだった。このように日々努力をして整理しようとしているのだが、新聞は毎日やってくる。追いつかない。新聞がどんどん新聞紙になってたまっていくのである。切り抜いた記事のスクラップも場所を取る。
片づかないから「あれはどこへ行った」という事態が招来される。こうなればもう本末転倒である。断捨離が叫ばれる時代。整理整頓とともに、捨てる快感を覚えないといけない。しかし、人生の後半部分になってこれまで培(つちか)った性格が変わるはずもない。願わくばこの形質が子々孫々に遺伝しませんように。
いつ果てるともしれない異常な暑さである。去年の今ごろの新聞(いわゆる古新聞)に「これまでにない暑さの夏」とある。今年はそれ以上である。となると来年は・・・ 人間たちよ、戦争をしている場合ではなかろう。 <えびおじさん>
ジンジャーの花開く