いつもいつも通る夜汽車、静かな響き聞けば、遠い町を思い出す・・・♪
子どものころの歌「夜汽車」である。この歌を聞くと、汽車の窓から暗闇を見つめている旅人の姿や、山の向こうの行ったこともない遠い町の様子を、子ども心にも思い浮かべることができた。「夜汽車」は今も歌われているのだろうか。
変わって、現在の「いつもいつも通るもの」は明け方の飛行機である。どうやら、えびおじさんの家の上空は旅客機の通り道になっているようだ。朝、まだ暗い時間に北東の空から南西の方向にかすかなエンジン音とともにひっきりなしに飛んで行く。飛行機に関するアプリで確認すると、行き先は台北か香港が多く、出発地は北米の各都市である。遥かな国から何時間もかけてやって来たと思うと感慨深いものがある。
乗っている人はどんな人だろう。ビジネスマンだろうか、観光の人だろうか。里帰りの人かもしれない。懐かしいふるさとへあと少しである。もう目が覚めたころかもしれない。朝焼けに染まった機体が小さくなっていく。韓国の空港は降り立つと唐辛子の匂いがし、中華圏の空港は中華料理の匂いがすると言われる。乗客たちは、すでに、空港での中華粥の朝ごはんを思い浮かべているのかも知れない。
このところ、ボケぶりが半端ない。「朝食は食べたっけ?」といったようなことはまだないのだが「今日は何曜日かな」というのはしょっちゅうである。先日は、平日であるにもかかわらず、家に置いてあったバス時刻表で、土・日のダイヤを見てその気になり乗り遅れてしまった。そこに誰かいたら注意してくれたのだろうが、あいにくと家には犬のベリーしかいなかった。この手の話が増えてきた。「物忘れとうっかりの日々」である。アブナイ、危ない。
大企業の社長には美人の秘書と黒塗りの車が付きものと昔から相場が決まっている。「なんと羨ましい、何と贅沢な!」とイヤミのひとつも言ってみたくなったものだが、今では、このことがよく理解できる。贅沢といえば贅沢だが、ある意味、必要なのである。つまり、スケジュールを忘れがちな社長に代わって、会合の開始を秘書が教えてくれ、また、送り迎えの車があれば、重要書類を電車の網だなに置き忘れることもないだろう。もっとも、秘書が美人でなければならないか、送迎の車が黒塗りの派手なものでなければならないかは別問題なのだが・・・
夏の終わりに、久しぶりに東京に行った。アスファルトなどの人工熱もあってか鹿児島よりも数段暑い。朝も涼しくならない。明け方、ホテルの周囲を散歩してみた。歩くだけで汗がにじんでくる。東京は都会にしては緑が多く人々も緑を大切にする印象がある。よく整備された街路樹が、わずかながらも暑さを和らげてくれている。ありがたい存在である。しかし、街路樹自身はどうだろう。車の排気ガスや騒音に悩まされ、お世辞にも心地よいとは言えまい。ついつい、奄美の樹々と比べてしまう。静かな焼内湾のほとりに植わっているガジュマルやアコウの樹は、ケンムンが夜を徹して遊び、陽が昇ると鳥たちがやって来て実をついばんでいく。午後になると涼しい風が通り、学校帰りの子供たちが、幹に下げたブランコで遊んでいく。時折やって来る台風には身構えしてしまうが、都会の街路樹に比べたらずいぶんと幸せだろう。もし歩けたら街路樹は奄美に行こうと思うかもしれない。
折しも、神宮外苑の再開発で多くの樹木を伐採する計画が持ち上がり反対運動も行われている。人々にとっては「ふるさとのような場所」だという。ユネスコの諮問機関であるイコモスも再開発撤回を求めてきた。人々の気持ちとともに樹々の気持ちも汲んで対応して欲しいものである。 <えびおじさん>
宇検養殖場の隣にある船越海岸( ふなこしかいがん 地元の人は、ふのし海岸とも )