2021-09-14
ここ数年の夏の具合から猛暑は覚悟していたが、数週間に亘る全国的な大雨、新型コロナ変異型の猛威、すったもんだの末に祝祭感なく開催された東京オリンピックなどなど、今年の夏は異変の数々であった。
新しい週のことを考えねばならない日曜日の憂鬱さに比べれば土曜日は天国である。来週の手帳は明日確認すれば良い<先送りの癖はなかなか直らない>。
のんびりと空を眺めている。宗教によっては日曜日が安息の日だというが、えびおじさんにとっては土曜日が安息日かもしれない。日曜日は気持ちの上では少し戦闘モード、もしくはその準備段階である。
思い出したのは小学生時代の土曜日である。昭和の頃である。その頃の土曜日は半ドンだった。授業は午前中で終わり下校となるのだ。現在の学校は週休2日で土曜日は休みである(地域によっては、月に1度、土曜日も登校するらしいが)。
えびおじさんにとって土曜日の半ドンは魅力的だった。さあ、午後は何をしようかワクワクするのだ。校庭でそのまま遊んでいるとスピーカーが下校を促す。しかし校門は出ても左に曲がって家に帰ることはなかった。右の方向は、えびおじさんにとっては未知の世界だった。ぶらぶらと町並みや風景を楽しんだり、また、左に曲がったとしても川えびを取ったり橋の上からコイやフナを数えたりとかだ。菜の花畑ではずらっと植えられた花の下をかがんで歩いて花の世界を楽しんだ。友達の家に寄ることも多く、数時間を過ごして、結局、家に帰り着くのはいつもの夕方と同じだった。土曜日の道草は格別だったような気がする。社会人になって居酒屋に立ち寄るようになる原型がここにある。
サードプレイスという言葉がある。学校、職場、組織、家庭といった立場を離れて、どこにも属さない自分なりの空間を持つことである。これと同じように、何ものにも束縛されない自由な時間も必要な気がする。サード時間、サードタイムともいうべきか。半ドンはまさにそうだった。学校にも家にも属さない楽しいひとときだった。
デジタル的な0か100という、どちらか一方といった決めつけではなく、どちらでもない50~60くらいのファジーさ、曖昧さ、これが好ましい。まさにアナログである。サードプレイスとサード時間は「場」と「時」という違いはあっても、ほとんど同義かも知れない。
今のえびおじさんのサードプレイスとサード時間は、黒猫クロちゃんと遊ぶことや山のギンナン拾いといったところか。ちょっと寂しいが、車の中もそうかもしれない。本や新聞で散らかっているが恰好の読書タイムが作れる。ITの普及のおかげで車内に携帯電話やパソコンが持ち込める。いっぱしの秘密基地である。話がずいぶん飛んでしまった。<えびおじさん>
ただいま昼寝中