2020-11-13
「戦争経験者が少なくなり、これからは戦争を知らない世代が戦争の悲惨さを伝えていかねばならない」と新聞やテレビが報じている。
いずれ、こういうことになると思っていたが、はたしてどうだろう。伝えていかねばならないとは思うが、伝えるべきことを十分に受け継いでいないのが大半の日本人ではないだろうか。
えびおじさんの子どもの頃、終戦から10数年経っていた。日本は高度成長の入り口に立っていた。戦争の傷が癒え始めたころでもある。大人たちは平和のありがたさを噛みしめていた。子どもたちは無邪気に遊んでいた。戦争のかけらが残っていたはずだが、子どもたちは気づかなかった。大人たちも自らは戦争を語らなかった。語りたくなかったのだろう。死ぬか生きるかの辛い体験だったに違いない。
男の子向けの雑誌には戦争ものの漫画がいくつもあった。ゼロ戦が敵をやっつける場面にドキドキした。戦争の悲惨さよりも戦闘のカッコよさが描かれていた。えびおじさん世代の戦争に関する知識は、主に漫画や雑誌だった。
断片的に「戦争」に触れることがあった。ふだん穏やかな父親が酒に酔うと少し荒れた。今にして思えば、抑えていた戦争の記憶が酒のせいで甦ったのだろう。父親は、ニューギニア戦線でヘビやトカゲを捕らえて食いつないだという。戦争は飢餓との戦いでもあった。酔って荒れる例は、他からも聞いた。
小学校の社会科の授業では、男の先生が、マッカーサーを、しょっちゅう、あげつらっていた。マッカーサーの名前を知らない女の子たちはきょとんとしていた。
戦争の悲劇は墓にも見られた。えびおじさんのふるさとの墓地に「飛行兵0000 昭和19年 フィリピン沖で戦死」と書かれた一基の墓があった。そして裏には「建立 母」とあった。父親ではない。ということは、母と子の家庭だったのだろうか。20歳そこらの最愛の息子を失った母親の無念さと戦争への憎悪がいやというほど伝わってきた。戦地だけでなくここにも戦争の実相があった。
戦争を知らない世代のえびおじさんは、戦争の悲惨な姿をほとんど伝え聞いていない。当事者たちがしゃべらなかったというのも事実である。しかし、もう少し積極的に戦争の話を聞いておけばよかったというのが、今の思いである。当時の大人たちは、戦地に行った人も、そうでない人も、皆、戦争体験者だったのだから。
日本人は、水に流す国民とも言われる。四季に富む国土は、人間たちの思いも季節の移ろいとともに流してしまうのだろうか。欧米の国民性は、過去を忘れず、しぶとく歴史を教えていく。移民国家や人種がさまざまな国にとって、国民統合の手段なのかもしれない。一方の日本は、それはもう済んだことだとしてしまいがちだ。しつこいことは「粋」ではない、ということなのか。
えびおじさんたちの頃の高校の歴史の授業は、石器時代から時系列に進んだが、明治時代あたりで時間切れだった。現在に直結する肝心の部分が欠落したままだった。むしろ、大いに学ばねばならないのは近・現代ではなかったか。
ずっと昔のことも必要ではあるが、この100~150年の歴史はまだ生々しく現在と大いにつながっている。日本が戦争に至った歴史の流れや必然みたいなものがあるはずだ。個々人の体験とともに歴史の構造的な問題の勉強も大切である。
体験していないことを語り継ぐのは、かなり難しい。ところで、最近は戦争遺跡を発掘・整備する作業が各地で熱心に行われている。新聞には、戦争体験談が掲載されている。こういったものや戦争に関する本などに肉薄して繰り返し繰り返し学ぶべきだろう。そうすれば、おのずと伝えたいことも分かってくるはずだ。私たちの今の姿勢は、やはり消極的に過ぎないか?
「過去を思い起こすことを怠れば、未来を失うことになる」、「記憶を持たない民族に未来はない」とは、第二次世界大戦終結を記念する式典での各国の首脳の言葉である。
現在は過去の上に成り立っている。そして現在の延長線上に未来がある。疫病が歴史から学ぶことが多いように、戦争についても同様である。
総務省の人口推計<2019年10月>では、戦後生まれが総人口の84.5%に達したという。今年は戦後75年。人の記憶が明瞭なギリギリのタイミングと言われる。疑似体験にもならないが、戦争を過ごした世代の方々の話をできうる限り聞きたいものである。
<文:えびおじさん>