2020-10-29
海辺に流れ着くのは「椰子(やし)の実」と相場が決まっていた。しかし、それは昔のこと。今、浜辺に打ち上げられるものは、椰子の実とともに、じつにさまざまな人工物である。
今朝、宇検村の海岸を散歩してみた。東シナ海に面している海岸だ。秋風ときれいな海。透きとおった季節だ。しかし、それとは裏腹に、海岸にはさまざまな物が落ちている。ペットボトル、ガラス瓶、子どものサンダルの片方。もう片方はどこか別の海岸に流れて行ったのだろうか。また、ロープや浮き球などの船の備品も落ちている。ラワン材と思われる大きな丸太もある。直径1メートル、長さ10メートルくらいだ。それらの「国籍」たるや、中国、台湾、韓国、東南アジアの国々と、まるで「アジア国際見本市」の感がある。海流の関係か、日本のものは割と少ない。
これらのごみは、なぜ、ここに流れ着いたのだろうか?いや、それ以前に、どうして、海に流れているのだろうか? 船から捨てたか、もしくは船から落ちてしまったのだろうと素朴に考えてみた。もちろん、それもあるだろう。しかし、サンダルが船から落ちたと考えるのは少しばかり不自然である。ペットボトルも異様に多い。想像だが、川に捨てたか、川に落としてしまったのではなかろうか。川に流れ出た漂流物の終着点は海だ。想像を膨らましてみた。
この子どもサンダルは、川で遊んでいるうちに誤って片方を流してしまった。男の子は泣く泣く家に帰ると、お母さんから「せっかく買ってやったのに、捜しておいで!」と怒られた。その様子が目に浮かぶ。この子の村はヒマラヤの麓にあり、サンダルは川を流れ流れて、中国大陸を横断して東シナ海にやって来た。今度は、漂流に漂流を重ねて、数年後に宇検の浜辺にたどり着いたというわけだ。どのくらい旅をしたのだろうか? 数百キロ、いや数千キロかも知れない。そして、もう片方のサンダルは子どもが大事にまだ持っている。サンダルも相棒が帰ってくるのを待ち続けているのだ。でも、長年の年月で、子どもはもう青年になってしまっている。サンダルはもう嵌(はま)らない。浦島太郎みたいな話になってしまって、少し想像が過ぎるようだ。では、ラワン材はどうだろう。
ラワン材は、東南アジアの港に係留されていたが、深夜、思わぬ低気圧の発生で、結(ゆ)わえていたロープが外れてしまったのだ。朝、関係者が気づいたときは後の祭り。本当は、アメリカに輸出するはずだったのが、黒潮に乗って、琉球列島沿いに北上してきた。途中、いくつもの船に出会ったが、船員たちも為すすべなく船の上から見守るだけだった。最初は数本だったが、徐々にばらけてしまい、宇検に着いたときは一人ぼっちだった。途中、骨休めに止まってくれた渡り鳥たちが旅の無聊(ぶりょう)を慰めてくれた。どうだろう、この想像はだいたい当たっているような気がするのだが。
椰子の実がどこからやってきたのか、昔の人が思いを馳せたように、これら、現代の漂流物に想像を巡らすのも悪くない。えびおじさんの友人は、以前、たくさんの注射針を見つけたことがあるという。なんだか、小説にもなりそうな話である。漂流物は異国の人々の生活への想像力を逞しくしてくれる。
しかし、ペットボトルの多いのには驚かされる。漂流物の半分を占めている。これは偶然流れ出たというより、捨てたのではなかろうか。川がゴミ捨て場になっているのかもしれない。日本製が少ないのは、環境保護の理念が行き渡っているのか。ただ単に、海流の関係で、この奄美大島には来ないのかもしれない。いや、ひょっとすると、その国の経済力を反映しているのかもしれない。
このラワン材をなんとか活用できないかと勝手に思案してみた。漂流物のリサイクルである。縦に半分に切って、夕日を眺める、長いベンチはどうだろうか。なかなかのアイデアと悦に入っていたら、周りの人からは一笑に付されてしまった。しかし、妄想は膨らんでいく。ベンチで夕陽を見つめているうちに新しいカップルが誕生するかもしれない。なにせ、えびおじさんは、「赤いものは恋を燃え上がらせる」という、個人的な成功例をいくつか聞いたことがあるのだ!
それにしても、これらのごみは、関係者が懸命に収集しても、すぐまた海の彼方からやって来る。いたちごっこだ。関係者に気の毒だ。そして、また驚かされるのは、世界中の海底には、想像もつかない量のごみが、漂流することなく沈んでいるらしいとのことである。
美しい水の惑星は今やごみの惑星になってしまっている。未来の人間たちは、「いったい何をしていたの!?」と、えびおじさんたちを嗤(わら)うことだろう。<文:えびおじさん>