夏の喧騒が収まり宇検集落にも静けさがやって来た。暑さはまだ残っているものの涼しさも時おり感じられる。日が沈み山の端に月が現れた。一昨日が中秋の名月(9月29日)だったので今夜の月は少し欠けているはずだが、まだまだ、はち切れんばかりに黄色く丸みを帯びている。
闇の向こうから太鼓の音が響いてくる。赤穂浪士の討ち入りを知らせる山鹿(やまが)の太鼓と思いきや、どうも違うようだ。八月踊りの始まりである。八月踊りは、先祖に感謝し、五穀豊穣、集落の繁栄を祈念する祭りで、旧暦8月のこの時期に奄美の各集落でほぼ1週間に渡って繰り広げられる。集落の人々が集い、唄って踊る。およそ2時間ほどだが昔は一晩中行われたという。集落の古老は「おわら風の盆のごとく」だったという。
夜の太鼓は人の心を騒がす。太鼓の音に吸い寄せられるように足が向いてしまった。
集落の真ん中にある相撲の土俵の周りでは、数十名の男女が列をなしてすでに踊っている。先頭を進む男衆数人がチヂンと呼ばれる小さな太鼓を威勢よく叩き、大きな声で唄いながら踊り手をリードしていく。あとに続く男女もそれに応えるように、踊り、唄っている。えびおじさんも仲間に加わる。ぎこちない動きだ。運動神経のか細さがバレてしまう。
テンポは速いが、踊りそのものはさほど難しくはないようにも思える。しかし、唄のほうはなかなか難解である。地元の人でも知らないような方言が続くのである。そう言えば、まだ明るい時間に、リード役の1人のTさんが、桟橋で、ノートを見ながらブツブツ言っているのを見かけたが、唄の歌詞を覚えようと勉強していたのであろう。
唄は、宇検集落の先人たちの信仰の唄であり、労働の唄であり、恋の唄であるという。踊り手に老若男女の区別はない。上手(じょうず)、下手(へた)の区別もない。ふだんはおとなしい女性も、人が違ったように、今宵ばかりは声を張り上げて楽しげである。新型コロナで3年間のご無沙汰だった。待ちに待った、という思いであろう。明るい月のもとでの八月踊りは明日への生活の情熱なのである。都会からUターンしたОさんの「スピーカーから流れる唄に合わせて踊るだけの盆踊りにはどうしても飽き足りなかった。チヂンにリードされて、唄い、踊る八月踊りが懐かしかった」の言葉が印象深い。
踊りがしばらくすると、今度は「家回り(やーまわり)」である。これは、最近めでたいことがあった家を皆で巡って寿(ことほ)ぐのである。今年は3軒の家が対象で、新築祝い、喫茶店のオープン、長寿の祝いなどである。家の庭でも唄や踊りが披露される。焼酎やビールとともに、さまざまなご馳走が出されてえびおじさんたちは恐縮至極である。子供たちも手伝って菓子や軽食を渡してくれる。あるお宅では、50年前に家を新築した際のお祝いの黒糖焼酎が一升瓶のまま保存されていてそれが供された。50年の歳月を経てさらに芳醇となった黒糖焼酎の香りが漂ってきた。呑み心地は言うまでもない。チヂンの音を聞きながら徐々に意識が遠のいていく。
月がだいぶ昇ってきた。「家回り」のあと、元気(?)な人たちは再び土俵の周りに集まっている。明日も秋晴れとの予報である。 <えびおじさん>
チヂン
< 八月踊り研究会 > 10月も半ばのある晩のこと、宇検集落の同好の士が集まって八月踊りの唄の練習に励んでいるとの情報を得た。さっそく覗いてみることに。会場は「みんなの家」という集会所である。毎月2回、夕食のあと、男女合わせて10人ほどが集まって上達に励んでいるという。歌詞集を広げて「ホーコラシャ節」「シャンクルメ」「アゴン村」などの歌詞を追いながら、皆、懸命である。昔の言葉が多くなかなか難しい。唄ごとに詳しい人が解説をし節回しを教えていく。数ある唄の半分は恋の唄だそうだ。娯楽の少なかった時代、八月踊りを通じて男女が思いの丈(たけ)をぶつけたのだろう。中には「玉乳うがも・・・」といった少し刺激的な歌詞もあり、思わず、皆に笑みがこぼれる。練習はおよそ1時間。車座になっての練習風景は昭和の時代を思い出させてくれる。 えびおじさんは「宇検集落 八月踊り研究会」と勝手に名づけてしまった。
「宇検集落 八月踊り研究会」のみなさん