2023-03-30
3月13日からマスクが外れて、相手の顔をまじまじと見ることが多い。口には出さないが、「おお、この方はこんな顔だったのか!」と少し当惑する。当然、相手もそのように思っていることだろう。あらためて初対面のような挨拶を交わす。
子どものころ、挨拶の大切さを教わったものである。「年齢、性別、立場を超えて人間が素(す)になる瞬間がある。それは挨拶の時である」と。
素の人間とは、鎧兜(よろいかぶと)を脱いだ、まったくまっさらな状態のことである。双方が「おはようございます」「おはようございます」と頭を下げる。このとき、立場の上の人が「おはよう」と上から目線だったら、双方の水平の関係は壊れてしまう。ぞんざいさも感じる。あくまでも挨拶は対等の関係であることが原則であろう。校長先生は、入ってきたばかりの1年生にも丁寧に挨拶する。そこに信頼関係が生まれ、一人の人間として扱われた子供は自信が漲(みなぎ)ってくる。敬意を備えた挨拶の大切さを実感する。水平の挨拶は実にすがすがしい。愛犬ベリーにも「おはようございます」。ベリー「ん? ワン」
話はごろりと変わる。誰しも、思い違いや思い込み、勘違いがある。えびおじさんにもいくつかある。
例えば、壁にかけてある時計の長針が一番下の6のところから上の12のところまでは30分である。同じように、12から6のところまでも30分のはずである。ところがえびおじさんには同じに思えないのである。前者はゆっくり時間が過ぎ後者はあわただしく感じるのである。なぜだろうか?
長針が重い体を持ち上げてゆっくりゆっくりと12の位置まで到達するのに比べて、下りは動きが速いように思える。時間の経過が早いような錯覚に陥り、えびおじさんはあわててバス停に向かうのである。昔ながらの長針や短針の時計ならではの思い込みであり、デジタル時計が主流の今ではこのような錯覚は起きにくいだろう。アナログ時代に育ったアナログなえびおじさんのアナログ話である。
映画「男はつらいよ」の寅さんは、気風(きっぷ)の良さはもちろんのこと、やけのやんぱちが持ち味だ。演ずる渥美清もそんな人柄かと思っていたら大間違いだった。実際に会ったことはないのだが、テレビの記者会見で、極めて丁寧な言葉で対応し居ずまいもきちんとしているのに驚いた。当たり前のことだが、あれはあくまでも演技だったのだ、とあらためて納得した。えびおじさんは役柄と役者を同一視していたのだ。
大好きな「津軽海峡冬景色」の「北へ帰る人の群れは誰も無口で・・・♪」も勘違いしていた。「北国の人は、元来、皆、口が重い」と思っていたのである。そうではなく、凍えるような寒さの中だから無口なのである。吹雪の中で口を開きたくないのは言うまでもない。よくよく考えると、えびおじさんの青森の友人も北海道の友達も本質は饒舌の塊である。むしろ、のべつ幕なしに口が動いている南国の人間よりも北国の人はメリハリがあり、口を開けば、速射砲の如くである。青森の友人は、あのリズミカルな方言に乗せて、喋る、しゃべる、シャベル。
余計なことながら、「津軽海峡冬景色」は題名がすべて漢字である。漢詩の世界のようでなんとも収まりが良い。過酷な厳冬の風景も浮かんでくる。
「都会の子供はよく勉強して頭が良い」とは、小学時代の先生の、田舎の子供への脅し文句で、ずっとそのように思いこんでいた。必ずしもそうではないと分かったのは東京に行ってからである。都会にも勉強嫌いはいた。もっとも、類は友を呼ぶ、で、えびおじさんの周りにはそういう人が集まってきたのかもしれない。 <えびおじさん>
春の海 ひねもすのたり 糸を垂れ <焼内湾 なかなか釣れず>
心地よい日差しの窓で舟を漕ぐ <居眠りえびおじさん>
春の午後 時計はゆっくり時を打つ <そろそろビールの時間か?>