活車えび宇検養殖株式会社

宇検だより

 貧乏性

2020-05-13

貧乏性である。我ながらケチくさいのである。たとえば、新聞に折り込まれてくるチラシは、裏側が印刷されていないものが好きだ。なぜなら、これはメモ用紙代わりに使えるから。新聞を開いて、チラシの中身を読むというよりも、裏が真っ白かどうかを確認する。ところが、この、裏が真っ白というものが最近はまことに少ない。1割にも満たない。残念である。資源の節約ということもあるのだろうが、ゆとりというか、情報に余白を残しておくというのも味わいがあるのでは、と、密かに、ほんとうに密かに抗議したい。両面を使っての、これでもか、これでもかの広告は性に合わない。表のみ使って、裏には、まっさらという間<ま>を残しておく。チラシに、おしとやか感が感じられる。日本人には「間の美学」が必要なのだから、と勝手なことを申し上げておく。ちなみに、今朝の裏紙の主は、新聞そのものの配達員募集の広告だった。どこも人手不足なのだ。

チラシに限らない。デパートの包装紙や、有名菓子店の包装紙は上質なために、わたしには垂涎の材料なのだ。また、箱を結わえていた紐なども保存しておく。貧乏性がここでも働く。昭和のおばさんばりの、もったいない精神かもしれない。

思いついたことをメモする。若い人はIT機器を駆使してのメモ術だろう。しかし、えびおじさんの記憶力は数秒である。下手すると、0.5秒くらいの時もある。若い頃には考えられなかったことである。そうなると、パソコンを開く悠長な時間はない。記憶がまだあるうちに、ポケットに忍ばせている裏紙を取り出す。そして走り書きをする。

裏紙にメモを書き込むと妙な満足感が得られる。これで大丈夫という安心感と、紙の使命をまっとうさせたという勝手な思いか ? 実際、この原稿もメモ用紙をもとに書いている。えびおじさんは、筆は選ばないが紙を選ぶのである。

たとえば、家でビールを呑むとき、どんなおいしそうな料理が並んでいても、まずは「柿の種」から始める。そして、徐々に、他の料理に手をつけていく。たとえ「柿の種」以外につまみがなくても別段の不満はない。なにせ、えびおじさんは、ビールのいちばんのつまみは「柿の種」と信じて疑わないのだ。しかし、これも、自分の家でのことに限る。主義・主張を外で押し付ける気持ちはさらさらない。しかし「柿の種」が恋しいのは事実である。「柿の種」はビール呑みにとって最大の発明ではないのかと、賛辞を送りたい。少なくとも、えびおじさんにとっては。

ついでに言えば、食べ物で文句を言ったことはまずない。なんでも食べる。さらに、ついでに言えば、ファッションに凝ったこともない。このあたりへの関心は非常に薄い。ファッションを競うほどのセンスの持ち主でないということもあるが、まあ、安上がりにできているのだ。

たとえば、昼飯である。最近は、このコロナ騒ぎで、自宅から弁当を持って行くのが当たり前になってしまったが、以前は、外での昼食がふつうだった。だいたい700円位の定食を注文する。東京あたりでは1000円くらいはするのだろうか。それなら、なおさらのことだが「この昼食代で文庫本が1冊買えるなあ」と嘆息するのである。

えびおじさんはたいそうな読書家というわけではない。ただ、亡くなった伯父の「若い頃、貧乏だったけど、本だけは欠かさなかった」という言葉が今でも脳裏にあるのだ。ゆえに、食事と本を天秤にかけてしまう。

頭の栄養とともに、体の栄養も大事であることは分かるのだが、今の日本には食べ物があふれている。こんな豊か過ぎる時代は日本の歴史上かつてなかったことである。古来、日本人は貧乏の中で過ごしてきた。遺伝子にそのことが組み込まれているらしく、食べ過ぎると体に変調をきたしやすい。もう少し粗食でもいいのでは。鹿児島の地元のテレビで、50年くらい前の懐かしい映像を流す番組があるが、登場する市井の人々は、おしなべてスマートである。太った人はまず出てこない。今は暖衣飽食が過ぎる。このぜいたくさは、いずれ、しっぺ返しが来るやも知れぬ。

文庫本が云々と書いたが、単行本を買いたいという気持ちはあまり起きない。なにせ単行本1冊で文庫本が2冊買えるのだから !

と、またまた、貧乏性が露見してしまった。

貧乏性のえびおじさんである。最近では、貧乏ゆすりこそしなくなったが、ゆったり構えるということが苦手である。いつも、ウロチョロ、ごちゃごちゃと、細かいことをやっている。   <文:えびおじさん>

貧乏性のえびおじさんのつまみは、チラシで作った器での柿の種

一覧に戻る→