活車えび宇検養殖株式会社

宇検だより

いとしのベリー ♪

2019-05-20

私の愛犬(駄犬 ベリー)は世間に疎(うと)い。それもそのはず、ほとんど家から出ないのだから。家と言いつつも、庭で飼っているのではなく、部屋の中だから、ますます「深窓の令息?」状態である。

世の中に疎い例を挙げると、近所の犬の鳴き声が聞こえても何ら反応を示さない。まるで他人事(他犬事?)である。同胞と喜怒哀楽を共にしようという様子がまるでない。動物病院に連れて行っても、仲間たちと仲良くするといったそぶりもなく、受付のお姉さんたちとなかよく会話している。

もっとも、同胞意識を持てというのが無理である。ずっと人間社会だけで暮らしてきたのである。どちらかというと、人間の方を同類と思っているフシがある。関心の対象も人間と同じである。宅配便の運転手の来訪の気配には敏感だし、ピンポ~ンに即座に反応して玄関に全速力で駆けつけ、配達員を労(ねぎら)うのである。

ペットと飼い主は性格がいつのまにか似てくるという。ペットが飼い主に似てしまうのか、それとも飼い主のほうがペットに近づいていくのか、取り合わせによってさまざまだろう。ベリーは、えさを欲しがるとき、上目遣いで私の様子を窺い空気を読もうとする。これは、どうも、忖度(そんたく)を旨とするサラリーマンの姿である。しかし、言うまでもなく、忖度は私の方が大先輩である。えびおばさんにも忖度する私の処世術をいつのまにか身につけたのだろう。

本来であれば、飼い主である私がもう少し頻繁に散歩に連れ出し、犬の本質を理解し、犬としての社会性を身につけさせるべきだったのだが、当方は折り紙つきの面倒くさがり屋だ。また、ベリーもベリーで、犬にあるまじきことか、散歩があまり好きではないらしく、外に出ても、すぐに帰りたがる。ついには、ベリーも出不精になってしまった。あとは、負のスパイラルである。「ま、家の中で走り回っているから運動不足にはならないだろう」くらいの気持ちだった。今でもそうだ。

ネコ派だった私がイヌ派にも属することになったが、小さい頃のベリーは可愛い存在だった。私は怒ったこともなく「躾ける」などは論外だった。なんでも食べさせた。これはよくなかった。一時、体重が増えて歩行困難になりそうになった。少し、野放図が過ぎたかもしれない。

口を開ければ食べ物がやって来る、寝るところは私と同じ布団の中、まさに暖衣飽食である。ペットの宿命とはいえ、これで良かったのかと時おり疑問に思う。はたして、ペットは幸せなのだろうか。

狼が家畜化されて犬になったという、そしてさらに、ペットになってしまった。本来持っている野生は影を潜め、人間の癒しのための存在になっている。去勢され繁殖もできず、小さい頃に親と離され、親の愛情も知らない。

それでも、癒しであれ何であれ、人間の役に立つことがペットの役目と、私は思い直している。少なくなった夫婦の会話の隙間を埋めてくれる。ベリーは、犬でありながらもペットとしての新しく生きる道を見い出したのかもしれない。複雑な思いを抱きながら、ベリーと日向ぼっこをしている。 (文:えびおじさん)

追伸)

先日の宮崎沖地震では、鹿児島でもスマホの緊急地震速報が鳴り響いた。聞き慣れない音にべリーもびっくりしたらしい。その慌てようは尋常ではなかったようで、えびおばさんの話では、「どうしよう、どうしよう、大変だ ! 」と、まるで人間のように右往左往していたらしい。

ある晩、えびおじさんは飲みすぎてトイレに籠城してしまった。そのとき、ベリーは「ご主人様の一大事」と、ドアの外でクンクンと鳴きながら、私が出て来るまでずっと心配してくれていた。なかなかの忠犬だ、と思う反面、このだらしないご主人様では、主従関係がいつか逆転してしまうのでは、と心配になってしまうのである。

 

えびおじさんと一緒に年賀状を書いた。

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